巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎はなぞの多い人物のようです。
その一端をご紹介します。
佐々木小次郎の出身については、実は2つの説があります。
ひとつは豊前国田川郡副田庄で、現福岡県田川郡添田町で生まれたといわれ、
副田庄の有力豪族佐々木氏の一族であったという説があります。
もう一つの説としては越前国で現福井県出身であるとする説があります。
なお、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』によると、
塚原朴伝は越前国と記されています。
小次郎は、中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされています。
上述の『二天記』では、巌流島での決闘時の年齢は十八歳であったとされています。
しかし、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはありません。
「巌流が十八歳で流派を立てた」という記述を書き改めたものであると考えられます。
また生前の勢源と出会うためには、巌流島での決闘の時に、
最低でも50歳以上、もし直弟子であれば相当の老人となっていなければなりません。
鐘捲自斎の弟子であったとすれば、
さほど高齢ではないと考えられますが、
少なくとも宮本武蔵よりは年上であったと考えられます。
この他にも小次郎の年齢に関しては諸説あり、架空の人物ではないかという説もあるほどです。
小次郎は、武者修業のため諸国を遍歴し、有名な剣法「つばめ返し」を編み出し、
巌流の創始者となり、小倉藩の剣術師範となりました。
1612年(慶長17年)刃長三尺三寸の野太刀「備前長船長光」、
通称物干し竿を使用して、宮本武蔵と巌流島で決闘し、一般的には敗死したとされています。
しかし、豊前国の小倉藩家老沼田延元の家人による『沼田家記』によると、
決闘で宮本武蔵は小次郎を殺すまではしておらず、
敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返したと記されているようです。
武蔵と小次郎の決闘と、その結果を巡っては諸説あるようです。