当ページでは上泉伊勢守秀綱に関する生い立ち、流派、エピソードなどを記します。
上泉伊勢守秀綱の生没年等年号はあるのですが、実は推測のものです。
上泉伊勢守秀綱の誕生は1508年といわれており、
武蔵守大胡秀継の二男として上野国大胡城で生まれました。
幼いころは源五郎と呼ばれておりましたが、
1529年も家督を継いで従五位下伊勢守に叙任されます。
1531年になると愛洲小七郎から陰流の相伝を受けます。
上泉に改めたのは大胡勝俊が桂萱郷・上泉の地に砦を築いて、
そこで住み暮らすようになってからであると言われています。
その後、大胡城も支配するようになり、伊勢守と呼ばれたり、のち武蔵守と呼ばれたりしました。
この所以から上泉伊勢守、または上泉武蔵守とよばれるようになりました。
上泉は新陰流を普及させるため諸国流浪の旅に出ています。
(『箕輪軍記』、『関八州古戦録』、『甲陽軍鑑』より)。
上泉は永禄6年(1563年)。
永禄7年に(1564年)上洛して、13代将軍足利義輝に兵法を伝授し、
永禄8年(1565年)に柳生宗厳に相伝を伝授します。
そして上泉は永禄12年1月15日から元亀2年7月21日までの間に32回上洛したという記録があり、
その後も数々の高弟に新陰流を伝えたといわれています。
そのため上泉の門下には一流の剣豪が名を連ねております。
さて最期にはいくつかの諸説があり、大和の柳生谷で亡くなり墓があるとされていて、
西林寺(前橋市上泉町)過去帳などには天正5年1月16日と言われ、
気楽流伝書には天正5年4月18日、上泉家の口伝書には、
天正10年小田原にて没すとされており定かではありません。
上泉伊勢守秀綱のエピソードとして、『本朝武芸小伝』(日夏繁高、享保元年(1716年))によると、
永禄6年(1563年)に上洛したときに、強盗が幼児を拉致しての立て籠もりに遭遇したようです。
このとき信綱は、近くの僧侶に袈裟を借り、
頭を剃って出家を装ったようです。
そして信綱は興奮している屋籠もりに近づいて、握り飯を差し出して
屋籠もりが握り飯に気を取られた隙に取り押さえて幼児を救出した、
という逸話があります。