剣豪の基礎知識
柳生兵庫介
当ページでは柳生兵庫介という剣豪の生い立ちや流派、そして柳生兵庫介にまつわる剣豪のエピソードなどを記します。
柳生兵庫介は天正7年(1579)に柳生庄で生まれます。子供のころは兵庫助利巌は石舟斎の長男である巌勝の二男であり、8つ上の叔父である又右衛門(宗矩)などと共に成長したようです。柳生兵庫介は幼名、兵助、長慶、伊予長慶、兵庫助利巌などと名乗り如雲斎と号します。利巌は26歳(慶長8年)まで石舟斎に剣を学んでおります。この石舟斎は関が原の戦のあった時にも、22歳の利巌を手元から離しませんでした。この間に兄の九三郎は、征韓軍に参加した時に戦死したと言われています。石舟斎と親しい関係であった左近は加藤清正に利巌の剣豪ぶりを話しをすると、左近から利巌を召抱えたいという強い要望があったみたいです。しかし、石舟斎は利巌を気遣って手元で修行を積ませたかったようですね。この時点で石舟斎自身はすでに75才でした。
柳生石舟斎宗厳は五畿内随一といわれた兵法者といわれていましたが、上泉伊勢守と勝負して敗れ時に新たに弟子入りして新陰流を究めといわれています。終には無刀の位について開眼した石舟斎は、伊勢守から正統第二世の印可を授けられました。この時点から柳生新陰流の歴史がはじまったともいわれています。石舟斎の五男・宗矩は将軍家の兵法指南役となって、後に柳生新陰流の名は幅広く知れわたるようになります。
利巌は数々の逸話を持っています。利巌は特に花を愛して、仏陀に供えることを日課にしていた側面もあります。加藤家では500石を与えられたが、1年足らずで加藤家を去ってしまいます。利巌が加藤家に仕えてすぐに山手に百姓一揆が起りったようです。このときに清正は利巌を呼び長門守が赴いているけれどもうまくいかず、利巌にすべての処理を任せると命じられました。そこで利巌は弟子達を集め陣営に赴き、伊藤長門守に会って清正の意向を伝え自分の考えを伝えたのですが、長門守は利巌に嫉妬もあって聞き入れませんでした。利巌としてはすべて任せるといわれたので、長門守を切り捨て、高原郷の叛徒の本陣を急襲して一揆を平定ししました。しかし同藩の古くからの武将を斬ったことは問題となりました。
江戸柳生との不和の原因?である利巌の妹利巌の妹(巌勝の長女)は、一度伊賀国山崎惣左衛門に嫁いだが、訳があり不縁となり、宗矩が柳生へ引き取って、老職の柳生主馬(佐野主馬)に嫁がせた。『玉栄拾遺』には「伝に曰く、主馬者朝鮮国の種也」とあり、また、別の記録には「然る所、主馬は他国人で氏も知られていない」とある。この再婚は利巌に何の相談もなく宗矩の一存で運ばれ、利巌には事後報告された。これが利巌には気に入らず、どこの人間かも、氏素性も明らかでない者に尾張柳生の当主であり当人の実兄である自分に一言も相談もなく事を運んだのは無法であるとして、以後尾張柳生は江戸柳生に対して絶交状態を続けるようになった。万事抜け目なく事を運ぶ宗矩としては、不覚と言われてもやむをえまい。主馬は後に柳生姓を許され老職になり芳徳寺の墓地に墓を列ねているほどであるから、よほど優れた人物であったようです。夫婦仲も良く、嫡子の八郎左衛門は山崎甲斐守、後に有馬氏に仕えている。